ものが固有の実体として存在しているのであれば、そのもの自らの力で成立していることになります。そのもの(対象)は、原因をもたず条件にもよらず、そのもの自身で成立していることになります。また、もの(対象)固有の実体をもっているのであれば、そのもの(対象)を分析すればするほど、その存在は明らかになるはずですが、いくら分析しても、そのもの固有の実体、あるいは本質は見つけられません。分析しても見つけ出すことができないということの意味するところは、その固有の実体、あるいは本質が存在しないために、見つからないことを示しています。しかし、見つけ出すことができないからといって、存在そのものがまったくないというのではありません。存在そのものがないならば、私たちに有益であったり、有害な影響を及ぼすことはできないでしょう。直接害を与えたり、有益な作用を及ぼすのは、私たちの感じたとおりであり、まさに私たちはもの(対象)に影響されています。ですから、ものが存在することは確かなのです。存在することが確かであっても・・・その現象の在りようは、もの(対象)がどのように存在しているかを分析することで見つけられるはずですが・・・実際にはいくら分析しても見つけられません。ですから、そのもの(対象)自らの力で成立しているとはいいがたいのです。したがって、もの(対象)を認識して、名づけられている側の概念の力によって、成立しているとしか考えられません。 今、私たちの心にものがどのように現れていますか?主・客にかかわらず、すべての現象は、対象自らの力によって現れているように見えていますが、このように認識するのは幻想といえるでしょう。あるいは、錯誤といえるでしょう。とにかく、ダライ・ラマ七世ケルサン・ギャツォは次のように述べています。「深い眠りによって不明瞭になった意識には、夢の中の対象が現れて見える。手品によって幻惑された意識には、手品師の見せる馬や牛が現れて見える。<意識が明瞭になって>そのような現れから離れたとたん、実際に存在しているものは何もないことを知る。それらは、何もないところから意識の力で仮設されただけにすぎない」このように説かれています。 ここでは夢や幻を例に挙げて、現象を説明しています。夢の中の象の大群は実際には存在しませんし、インドにいながらチベットの夢を見ますが、ここにはチベットはありません。ですから、現象があるからといって実体的な何かが存在しているわけではありませんね。この喩えのように、夢の中のものは実際には存在していませんし、現実世界の自と他、などのすべての存在は、意識によって成立しているにすぎないのです。あるいは、単に名づけた(仮説(けせつ)した)にすぎません。それらの対象で自立的に存在しているものは、ひとつとしてないのです。輪廻や涅槃の中でさまざまな存在が、自立的に現れているように見えていますが、そのもの固有の実体として存在しているものは、何ひとつとしてないのです。「自と他、すべての存在は、意識によって名づけられた(仮説された)だけにすぎず、自立的に存在しているものはない。そのもの自体によって成立しているものは存在しない。しかし、無明の深い眠りに支配されたわれわれ凡夫の六識(眼・耳・鼻・舌・身・意の意識)によって感受されるすべては、対象の側から自立的に現れたように思われるのだ。これは、自分自身の悪しき心がそうさせているのである」私たちの心(意識)でとらえた対象は、実際の対象とは違っているのです。けれども、無明の深い眠りと無明が熏習してきた力・・・この場合の無明というのは、ものを実体視してとらえる在り方のことです・・・があることによって、私たち凡夫の六識に色や音や匂いのどれが現れても、対象側からやって来るように思われますし、そのような感覚があります。これらのことは、私たち凡夫の経験を観察することによって知るべきことです。 とにかく現象そのものは自ら成り立っているのではありません。「対象側から現れているように見える、私たちの錯誤にした考えを知りなさい」と教えているのです。私たちの悪しき意識(無始以来より無明によってものをとらえる習慣化)の力によって、心に現れる現象が対象側から現れているように見えているのです。ですから、名前(概念)の力で現れているという認識がまったくありません。このことは、対象自らの力で現れていることになりますね。私たちは、あそこにあれがあると指し示します。これは無意識に自然にそのような行動をとっています。対象の側から自立的に現れているように見えています。ものの側から存在し、あるいはものが自立的に自然に現れているようです。しかし、そのようなものなどないのですが、私たちには固有の存在としてしかものが見えません。そのように、私たちの悪しき意識、不浄な意識があるため、対象の側から自立的に現れているように感じていると知るべきです。 固有の実体をもったものは存在しない 「私やものがもとからあるように考える在り方を、より徹底的に否定し、心の中から少しも残らず完全に捨て去ることが肝要である」このように教えています。このようにして、主体・客体にかかわらず、すべての存在は心の力によって現れただけであり、あるいは言説(概念)の力によって存在しているのです。対象の側から自立的に、実体をもったものとして現れているのではないのです。そして、「心(意識)」そのものもすべての存在に属しています。ですから、他の存在と同様に「心(意識)」を分析しても、その本質は見つけ出すことはできません。「心(意識)」も一刹那前の意識や一刹那後の意識というように部分の集まりにすぎず、名づけた(仮設された)だけのものにすぎません。たとえば、眼の意識を考えることにしましょう。目に映るものは、堅固で固有の実体をもった自らの力で成立しているもののように思われます。自分の意識がつくり出したものだとは思われませんね。もし、それらの対象が自立的に存在するものなら、分析することで、よりその存在の担い手が明確になるはずです。また、分析することによって、部分によらず成立するものではないことが分かります。部分の集積したものでないものは存在しませんね。すべてが部分の集まりなのです。その部分と部分とは本来は別のものであるはずですし、さらにその部分をもっている担い手である主体があるはずです。しかし、その主体はどこにあるでしょうか?いくら分析を試みても担い手である主体は見つけることができませんね。 このように、部分の担い手である主体があることはあるでしょうが、その主体を具体的に指し示すことはできないのです。たとえば私自身であれば、その主体はどこにあるのでしょうか?その主体が存在する場所は、この肉体や心以外のどこにもないはずです。では、心が主体でしょうか?「心(意識)」そのものもまた、固有の実体として成立しているのではありません。「心(意識)」は本来静寂であり、分別から離れたものなのです。 因果関係と空 今、私たちがもっている過失や汚れの混じっている心が実有の在り方であるなら、過失や汚れをすべてなくし、すべての功徳をそなえる「仏の心」に到達する可能性さえないことになります。過失をもつもたない、美しい醜い、善悪、これら多様に姿を変えても矛盾しないもとにあるのは、どんなものでしょうか? そのもとになっているものそれ自体が、実有ではないものなのです。もし、諸存在が実有であるなら、条件や要因に影響されることはないでしょう。条件や要因に影響されて、さまざまな姿を変えることは、考えにくいことです。また、諸存在が実有であるなら、この存在を原因として、そこから結果が生じることは適わないはずです。逆に、実有である存在が結果であるなら、原因を必要としないでしょうし、原因に依存しているということは考えられません。 しかし、「原因」はたしかにあるはずです。どんなものでも、原因のないものは存在しません。「無」から、何かが生じるということはないのです。また、善悪もあります。善い原因には善い結果があり、悪しき原因には悪しき結果があるという因果関係は否定できないはずです。実有ではないもののみに、善悪が存在します。換言すれば、固有の実体をもたないもの(空性)のみに、因果関係の「縁起」が成り立つのです。実有であれば、縁起は成立しなくなります。実有であるなら、善きものは条件や要因に影響されることなく、変化する可能性さえもっていないため、善きものはいつまでも善きものでありつづけ、縁起することがなくなります。従って、論理的に諸存在の在り方を考えたなら、善悪が成立すること、縁起が成立することを根拠として、「実有でないこと」、つまり「空性」であることは確かです。 現象が「幻」であるならば、自らの力で存在していることはなく、つまり、「空」であることを示しています。固有の在り方から離れて存在しているため、絶えず条件や縁によって変化する可能性を潜ませています。このように現象は、固定されることなく、さまざまな現れ方をすることで、「空性」を負かすことはできないのです。逆に、「空」であるために、現象が常に変わらないことはないのです。現象は「空性(自性として存在しないこと)」の障害になることはなく、逆に、空性が現象の障害になることもありません。お互いに支え合っているのです。このことに関してジェ・ツォンカパは『ラムツォ・ナムスム(道の三要訣)』で、次のように述べています。「欺くことのない縁起を観察するだけで、我執よって把握する対象(われわれが一般的にとらえている現象)が、すべて跡形のなく消え去るならば、そのとき、まさしく空性の正しい見解が完成しているといえる」 これは難解ですね。よく理解できませんが・・・このようになるには、心をよく訓練し、何度も修習する必要があります。一度だけでは、自性から離れているという「空性」を理解することはないでしょう。まずは、顕現の在り方を深く認識することです。これができて、空性の在り方を納得することができるのです。 「縁起」に対して少しでも理解が進んだなら、「空性」がどのような状態になっているかを思索するのです。我執(実体性)がとらえる対象を否定するためには、集中力が必要です。これが認識できたなら、分別したものにすぎないし、分別できることを理由に、諸存在は縁起しているのであり、実体性をもたないことが、逆に理解できるのです。このように「空性」と「縁起」は、お互いに支え合っています。これを長い間にわたって思索し、瞑想修行したなら、いつか「顕現」と「空性」が一つになることが、あたかも親しい友達のように感じられることでしょう。このように分別することの意味が理解できたなら、とても役立つことになります。 「いかなる現象もそれは自身の心であり、心の本性は本来戯論より離れている」という状態にあります。現象というのは、自分自身の心と無関係に、対象の側から自立的に存在しているように見えるのですが、ものの在り方を分析したなら、それが完全に誤りであると認識することができるのです。それらの現象は真実ではないと考えられます。そのように、心の底から判断できるようになることが大切になってきます。すべてが、不完全なものとして現れているにすぎないのです。
空性に意識が集中しているときには、一時的に何もない暗い場所に置かれているような状態になります。そこでは支援するものから離れているような感じを受け、さまざまな現れが生じても不確かなもののように思われます。心がこの状態に達したときには、把握したことがすぐさま消滅してしまわないようにしなくてはなりません。少しの時間だけしか、その心の状態に留まることができないからです。ですから、集中力がなければ、次の瞬間には消滅してしまうのです。しかし、集中力によって、その痕跡を残すことができるのです。つまり、集中力で瞬間瞬間の現れをとらえることによって、明らかな空の状態が立ち現れるのだと思われます。この状態に至ったときには、ものを妄分別する隙間さえ失われています。執着の対象などを妄分別でとらえる機会さえ存在しないのです。この状態が「無念無想」と明らかに違う点は、「空性」をとらえていて、それに対して集中しているのであり、それ以外のことに対して分別しない、概念化しないことであって、何も考えずにまったくの「無」に帰するのではないということです。「空性の意味を理解して、他(空性以外)が見えないことは、正しい見解である」 ここに説かれているように、「空性」を見るのです。その状態のままで、落ち着いて禅定に留まることができたなら、「虚空のような禅定」と賛辞される禅定といえます。 現象は虚構である 瞑想から普通の顕現に戻っても、すべての現れは幻のような状態だと思われます。・・・空性を理解することや痕跡を残すことは、とても大切なことです。空性を理解する意味は、日々の生活の中でさまざまな対象と関係するときに、その対象の本来の在りように適ったかかわりをもつことができる点にあります。それは、さまざまな対象には、それに見合った在りようで、その対象の空性があることを理解することによって、なされます。たとえば、私たちは他人と関係するときには、その相手のことを把握して、さまざまなかかわり方をします。その相手に見合った関係の結び方を構築します。そして、その相手本来の在りようを理解できたなら、私たちはさらにいい関係を結ぶことができます。そのためには、ものの本来の在り方を理解する必要があります。理解すべきことというのは、対象は実有ではなく、虚構でしかないということです。ですから、私たちが対象とかかわるときには、虚構でしかないものとかかわるのであって、実有ではないという見解によって、その対象と誤まったかかわりをしなくてすみます。 空性を理解することの意味 「実有ではないと見ること」、あるいは「空性を理解すること」は、何も存在せずに、何も意味がないことを示しているのではありません。さまざまな善悪を否定するものでもありません。それぞれの対象は実際に存在しますし、心に何も現れないからといって、すべての存在を否定しているのでも在りません。対象が意識に現れたときに、蒙昧によって執着が生まれます。その対象が実体として存在し、素晴らしいもののように思い込みます。怒りもまた、これと同様な現れ方をします。これら執着や怒りを断滅するために、空性を理解することの意義があるのだと思われます。このことを理解するのは、とても役立つことです。要約すれば、日常生活の中で善悪さまざまな対象に遭遇したときに、善きものに対しては善いと、また悪いものに対しては悪いという、善悪に対しての判断をなし、さらには固有の実体をもった存在のようにとらえて、とても素晴らしいものとして、その対象に強く執着したり、逆に醜いものとして避けようとします。禅定によって空性を理解し、その素晴らしい痕跡を頼りにすることによって、このような執着をとめることができます。対象が実有ではないと認識することによって、善悪という考えをなくしてはいませんが、正しくない妄分別で起こした執着を否定しているのです。この執着を支援しているのは、「無明」であり、「我執」が支援する条件になっています。 執着をなくす二つの瞑想法 普段の生活の中で、美しいものに出会ったときには美しいと感じます。夏の盛りの虹の色彩は、たしかに美しく見えます。しかし、美しく現れていますが、これは言説(概念)として美しいのです。これを実有と見ない力、実有と考えない力によって、対象に対して強い「我執」をもつことが避けられます。そして、しだいに「我執」そのものが起こらなくなります。このような「我執」を起こすことのない状態を増やしていくことで、「執着」は生じなくなるのです。この点に関して、『四百論』では次のように説かれています。「身体の五根のように、すべては無明に依存している。そのようにすべての煩悩も、無明をなくすことで消滅するのである」 中観帰謬論証派の考え方によれば、煩悩の成立に関しては、このような見解をもっています。ですから、美しい現象であっても、実体のないものとして執着を捨てることこそが実践となってくるでしょう。 <また、怒りや憎しみなどの逆境に遭遇したときでも、実体のないものとして執着せず、錯誤と見なすことが肝要である> 「執着」をなくす実践的な方法として、二つの瞑想法があります。ひとつには、美しいものに対し不浄であると見て執着をなくす方法(不浄観)と、美しいものは真実の現れではないと見て執着を捨てる方法(空観)の二つです。この二つの効果には、大きな違いがあります。この二つをもつことは、とても有益なことです。「不浄観」は一時的に執着を滅する方法ですが、究極的に断滅することはできません。これよりさらに有効なのが、どんな対象や現象も自性をもたないという「空性」に対しての深い理解をもつことです。この「空性」に対しての理解は、執着をなくすことにとても役立ちます。それは確かです。 |
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